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2003年7月15日 Franz Schubert Op. 25 "Die Schöne Müllerin" 美 し き 水 車 屋 の 娘 第一回 第1曲より第11曲まで バリトン:川 村 英 司
ピアノ:小 林 秋 恵
今回からシューベルト作曲の『美しき水車屋の娘』(全20曲)を2回に分けて、話と演奏をいたします。
最初にドイツ語圏の親方制度(Meister)について話します。粉挽き(Müller)には限りませんが、鍛冶屋(Schmid)とか大工(Zimmermann)とかになろうという少年が親方を選び、其の親方の元で何年か修行をします。其の修行が終わり、日本流に言うと年期があけた所で、諸国漫遊に出掛け、他の土地での新しい技術習得をしてから再び親方の所に戻り、マイスター(親方になる)試験を受け、合格して初めて親方として独立し仕事が出来るようになるのがドイツ語圏の所謂職人となるためのしきたりです。現在でも全く昔のまま制度は残っており、諸国漫遊には現在でも徒歩で、車には乗らずに、旅行しなければなりません。(数年前に新聞で現在もその制度、しきたりが残っている事、今では女性の親方も増えつつある事が記事になっていて読みました。)又出発前には修行する専門も決めて出掛け、それ以外の事は修行できませんし、一箇所に3ヶ月以上は滞在することも出来ないのがしきたりです。結構厳格にこの制度は守られているとのことです。
この話の筋は「新しい技術を学ぶために諸国漫遊に出掛けた粉挽き職人の卵が、見知らぬ土地の粉屋の親方の元での修行中に、親方の娘に恋心を抱きますが、狩人の若者が現れて振られてしまいます。粉挽きを目指した若者は失恋の痛手で入水自殺をしてしまう。」と言う物語です。
またこの曲成立の時代背景は、パイジェッロが作曲し、1788年にナポリで初演したオペラ「恋の邪魔し合い」が大好評で、89年に「水車屋の娘」 ,,La Molinara" と改題してヴェネツィアで公演され、90年にはドイツ初演をドレスデンでされています。一世を風靡した人気オペラであり、人気のテーマでもあった事が重要な要因であった様です。
この話の筋に触発された詩人や作曲家は多かったのではないでしょうか?このオペラの中の二重唱 ,,Nel cor piu non mi sento" は特に有名になり、Beethovenが6つのヴァリエーションを作曲しましたし、パガニーニもヴィオリンのための変奏曲を作曲したほど有名なオペラの二重唱曲になったようでした。
メンデルスゾーン姉弟の作曲の先生ルードヴィッヒ・ベルガー(1777年4月18日生まれ、1839年2月16日没)がこのテーマで作曲を試みようと思い4人に詩作を依頼して10曲からなる歌芝居(Singspiel) [Gesänge aus einem gesellschaftlichen Liederspiele "Die scheöne Müllerin" Op. 11] を1815年に完成させています。その折のミュッラーの詩(5篇を書いた)をベルガーは気に入ってミュッラーに一人で詩を書く様に勧めたとの事です。其の後プロローグと23篇の詩にエピローグを加えた詩を作りウラーニア誌上に発表しましたが、其の詩集から20篇の詩を選んで1823年秋に作曲したのが、シューベルトの歌曲集『美しき水車屋の娘』全20曲です。
シューベルトが作曲しなかった「前口上」、「エピローグ」と三つの詩は参考資料に大まかな対訳を添えて作りましたのでお読み下さい。
Otto Erich Deutsch の「シューベルト作品目録」によるとシューベルトは1823年の10月(?)から11月にかけて作曲したようです。1823年11月30日に書いたショーバーへの手紙には「4分冊で出版される予定で、挿絵はシュヴィントが画いてくれた。」とありますが、実際には24年2月17日に1冊目、3月24日に2冊目、8月12日に3冊目から5冊目までの全曲が出版されました。
23年年頭から病状が思わしくなく、かなり精神的、肉体的に参っていたシューベルトでしたが、23年中にDV 774からDV 797までオペラや劇音楽などを作曲しています。24年3月31日には「・・・・・僕は、自分がこの世で最も不幸で最も惨めな人間だ、と感じている。健康がもう二度と回復しそうにないし、その事に絶望するあまりに、物事を良くしようとするかわりに、益々悪く、悪くしてゆく人間の事を考えても見てくれ。・・・・・『僕の安らぎは去った。僕の心は重い。僕はそれを二度と、もう二度と見出す事は出来ないだろう』・・・・・」と友人の画家クッペルヴァイザーに書き送っています。シューベルトの人生の危機の時代に作曲された彼の最初の連歌集がこの『美しき水車屋の娘』です。
先ず最初の曲、年期奉公(徒弟制度の修業時期が)が終わり、親方夫妻に励まされて喜び勇んで諸国漫遊に出掛けるWandern(さすらい)をお聴きください。
(演奏)
これがシューベルトの作曲したWandern(参考資料1)[初版]です。
(演奏)
これが所謂フォーグル=ディアベリ版のWandern(参考資料2)です。
如何でしたか?Vogl-Diabelli版は何時も聴いているのと一寸違うと思われませんでしたか?実はシューベルトが1823年秋に作曲し、初版を1824年2月17日から8月12日にかけて出版した後1830年にVogl=Diabelli版が出版されました。以後70年余の間一般に伝わっていた『美しき水車屋の娘』の楽譜は、いわゆるVogl=Diabelli版と言う楽譜で、僕も4,5種類の楽譜を持っています。
Vogl=Diabelli版の初版 (参考資料2)
Vogl=Diabelli版の再版以降の楽譜 (参考資料3)
Spina社版 (参考資料4)当時の名バリトンJ. シュトックハウゼンが歌った中声用楽譜
Litolff版 (参考資料5) これもVogl=Diabelli版と全く同じです。
この他にも色々あります。1830年から1890年にかけて写譜された手書き楽譜の多数をオーストリア国立図書館とヴィーン市立図書館で調べましたが、当時はいかにフォーグル版が普及していたかを如実に物語っています。所謂シューベルトの初版を写譜した手書き楽譜は見つかりませんでした。
1884‐95年にシューベルト全集が出版され、歌曲のシリーズは1894‐95年にできましたが、初版の楽譜に戻すのに大変苦労したと言う話しは聞いた事があります。一斉を風靡していた楽譜を元の形に戻す事、初版にも色々不備があり、どう解釈すれば良いのかなど、マンディチェウスキー博士は大変苦労した事と思われます。現在使われているフリードレンダー博士のペーター版も同様に大変苦労をして初版に戻した、と聞いているのですが、古いペーター版(参考資料6)(フリードレンダー緯線の楽譜)は既に初版に戻っていますが、フリードレンダー博士が「校訂について」でフォーグル版との違いを克明に説明しています。両者の楽譜間の時間的問題は現在の僕には不明であり、残念ながら説明が出来ません。
それらの違いに興味を持たれた方は私の所で楽譜を比較してください。今日は大きな違い、興味のある違いについて少し触れる事にいたします。大きな違いは第2回目の後半の分に沢山あります。メロディーを変えたり、伴奏形を変えたり、「ここまでするかよ!」と言いたいぐらいに変えていますが、当時の時代背景を考えれば、当然とも言えるのです。
シューベルトと同時代のイタリアの作曲家ロッシーニのオペラのアリアを楽譜通りに歌っている人は現在一人もいないでしょう。恐らく初演から楽譜通りに歌った人はいないのではないでしょうか?色々即興で、又は用意周到に考えて歌手の能力に応じて歌うのが当時のスタイルであったと聞いています。
モーツアルト、ベートーヴェンでもシューベルトでも楽譜に ad libitum と書かれている場合は結構ありますが、現代の我々は殆ど無視をしています。と言うのは ad libitum で演奏ができる教育もされていませんし、能力が無くなっているのです。100数10年前の歌手は作曲家が書いた楽譜通りに歌うのは最低の才能レベルと思われていたのです。カデンツを付けたり、装飾したりするのは当たり前の事で、それが歌手の力量でもあったわけですから、オペラ歌手のフォーグルも当然、歌手として色々変えて歌いましたし、その楽譜が売れると思ってディアベリ社が出版し、当時の一般聴衆にはこちらの方が好まれたという事だったのでしょう。
この曲が最初に演奏された記録として、1831年1月29日にヴィーンの楽友協会でAbendunterhaltung(夕べのお楽しみコンサートとでも言うのでしょうか?)と題したシリーズのコンサートで演奏されており、其の広告が1830年7月12日付で発表されています。(ドイツ語版のDeutsch Verzeichnisには記載されていませんが、ヴィーン楽友協会の資料で確認しました。)1856年5月、60年5月10日にバリトンのJulius Stockhausenによって演奏された記録も残っています。
実際にシューベルトの作曲で歌いなれている我々には、フォーグル版で歌う事は結構抵抗はありますし、歌い難いのですが、当時はVogl版が一世を風靡したわけで、ブラームス時代の名バリトン:ユリウス・シュトックハウゼン(ブラームスの歌曲を沢山歌い、ブラームスも彼の声のために作曲した歌曲は沢山あります。)ですらフォーグル版を当然の事として歌っていたのでした。我々には不思議に思えるのですが、事実なのです。そのバリトン用に出版された楽譜がSpina版なのです。
少しはこの時代の背景を知っていただけたかと思います。
では個々の曲について話を進めます。
第1曲 Das Wandern. さすらい
最初に述べたように希望に燃えて旅立つ若者の歌ですが、この曲はそもそも現在出版されている楽譜に問題があります。初版(参考資料1)と旧全集AGA(参考資料7a)ではフェルマータはFine [ここで終わり] と言う意味の記号ですが、それ以外の楽譜では全く違う解釈になると思います。したがって各節ごとにフェルマータで延ばして歌い始めては生き生きした感じは出てきません。テンポで前奏が終わって直ぐに歌い出すべきだと思います。
新全集(Walter Dürr監修)(参考資料7b)を信頼できない理由の一つもここにあります。この「美しき水車屋の娘」の自筆楽譜 (Autograph) は原調では20曲のうち第15曲1曲しか残っておらず、シューベルト自身による移調楽譜が第7曲から第9曲までの3曲が残されているだけです。従って初版楽譜を元にして考えなければなりませんが、初版楽譜には色々不明な、理解に苦しむ個所が多々あります。それらをどのように解釈するかが問題なのです。フリードレンダーの「校訂について」ではこの曲のフォーグル版について下記の様に書かれています。
譜例1)
この様にVogl=Diabelli版との違いについて校訂報告を書いていますが、時代のなせる技で資料不足から来る間違いがあることは認識しておかなければなりません。新シューベルト全集は豊富な資料(でもまだ足りないのです)で編集されているはずですが、私は編集者の見解による問題もあると思っております。
第2曲 Wohin? どこへ?
諸国漫遊に出掛けた若者の耳に聞こえてきたのが小川のせせらぎです。この小川に沿って下って行けば水車屋に辿り着けるのではないかと胸を膨らまして小川に尋ねます。
この曲では聴き慣れないメロディーは11小節と49小節から53小節にかけて[フォーグル版] (参考資料8) 存在しますので違いを部分的に歌います。
第3曲 Halt ! 止まれ!
小川に沿って下って来ると灯りで窓が輝いている水車屋を見つけました。居心地の良さそうな、楽しげな水車屋だ。さーここに落ち着こう。小川もそう考えてくれたのかと感謝するのです。
有難い事にこの曲では違いはありません。
第4曲 Danksagung an den Bach. 小川に寄せる感謝の言葉
この曲は第3曲の最後の言葉から続いて小川に寄せる感謝の気持ちを歌っています。
この曲ではメロディーと伴奏に改悪が見られます。比較してください。どちらが皆さん方にぴったりしますか?1回目(シューベルト)と2回目(フォーグル)の歌でどちらを好まれますか?
ちょこちょこと装飾をしていますが、大きな違いは26小節 (参考資料9) [フォーグル版] に現れてきます。旧全集 (参考資料10) ではこの様になっておりますので、伴奏のフレーズの違いも見る事が出来ます。
この違いは当時写譜された楽譜にも同様のメロディーと伴奏が写されていますので、如何にVogl版が流行していたかが想像できます。
辿り着いた水車屋に腰を落ち着けて働く事になり、仕事を始めました。一日の仕事が終わり夕べの団欒ですが、親方の美しい娘に気に入られたい思いが募り、千本もの手があったら人の何倍も働いて認めてもらえるのに、他の徒弟より目立った働きをしたいと意欲を燃やすのが第5曲です。
第5曲 Am Feierabend. 仕事を終えた宵の集いで
この曲では伴奏は変わっていませんが、メロディーは少しづつ変わっています。特に46小節の頭 (参考資料11) [Vogl版の初版]、(参考資料12) [Vogl版再版] にRecit:と記入されて譜割が結構変えられています。(参考資料13) [旧全集] 。またフォーグル版の54小節目にはad. libitumが歌唱部と伴奏の両者に記入されています。(参考資料14)
1回目がシューベルトが作曲したものです。部分的にVogl版で歌います。どの様に感じられますか?
第6曲 Der Neugierige 知りたがる男
彼女の心がどうなのか知りたい!庭師なら花に聞けるだろう。星は高い所にいるので聞けない!小川よ彼女の心を教えておくれ!と尋ねるのです。
この曲も中ほどから装飾されています。1回目はシューベルトが作曲した通りで、Vogl版を部分的に聞いてください。参考の為におしまいの数小節を比較してください。(参考資料15) [Vogl版]、(参考資料16) [旧全集]
第7曲 Ungeduldig いらだち
自分の気持ちを伝えられない苛立ちの気持ちがこの歌です。
この曲の最後の2小節を初版(参考資料17)、Vogl版(参考資料18)、旧全集(参考資料19)、新全集(参考資料20)とシューベルト自身が移調した自筆楽譜[A1](参考資料21)などを比較してください。この件に関してはPeters版(参考資料22)が[A1]と同じ装飾をしていますが、Vogl版でなぜそのような装飾をしなかったのか不思議な気がします。
[A1]はシューベルトが第7曲から第9曲までの3曲を自身の手で移調した楽譜です。1951年に出版された英語版のドイッチュの作品目録( Schubert / Thematic Catalogue / of all his Works / in chronological Order / by / Otto / Erich Deutsch )ではprivate collection, Viennaと記載されていますが、1978年に出版されたドイツ語版の作品目録(Franz Schubert / Thematisches / Verzeichnis / seiner Werke / in chronologischer / Folge )では紛失した、と記載されています。その後再発見されて1993年に刊行されたInternationales Franz Schubert Institutの機関誌 メSchubert durch die Brilleメ (眼鏡を通したシューベルト)に白黒写真で掲載されています。その後にヴィーン市立図書館で原本を購入し1997年に開催した『シューベルト生誕200年記念特別展覧会』に出品され、カタログにカラー写真で掲載されました。
如何に資料が移動したり、発見されているか作品目録を見ただけでは足りないと言う事もご理解頂けるかと思います。各地の図書館や博物館で調べて初めて正しい所有物や所有者が分かるのです。ヴィーン楽友協会と市立図書館で「シューベルト作品目録」に加えられているものはチェックをしましたが、他の図書館でも同様のことがあると思います。
Vogl版との違いはほんの少しです。
第8曲 Morgengruß 朝の挨拶
おはよう!と朝の挨拶をするのですが、自分が期待したような挨拶が帰って来ない事のもどかしさを歌っています。
前奏3小節の右手 [A1] では8分音符と16分音符と16分休符の組み合わせです。(参考資料23)
歌の出だしのアウフタクトが2つの8分音符になっているのが初版(参考資料24)、Vogl版、旧全集、新全集、20D以外のペーター版で、付点8分音符と16分音符になっているのが [A1] (参考資料25)とペーター版の20D(特に低いBassとアルト用のシューベルト歌曲の第1巻)だけです。
何故同じペーター版で違うのか?そのような例は数限りがありませんのでペーター版を使用する方は気を付けてください。
5小節目にVogl版で短前打音の装飾がされている他は、18小節の3拍目にrallent. が歌唱部と伴奏の両者に加えられました。(参考資料26)
第9曲 Des Müllers Blumen. 粉ひき職人の花
小川の岸辺の花に託して気持ちを伝えようとします。
この曲は殆ど違いがありませんが、15,35小節に dim. がVogl版で加えられました。
[A1] には「この曲の伴奏はオクターヴ高く弾く事が出来る。」とシューベルトのサインと一緒に書き加えられています。(参考資料27)
第10曲 Tränenregen. 涙の雨
やっとの事で二人で岸辺に坐る事が出来ました。感極まって僕の目に涙があふれ水面に落ちて輪が広がりました。その時に彼女は若い粉挽きの気持ちなど知る由もなく、「雨だわ、家に帰るわ、さよなら」とそっけなく言うのです。
初版(参考資料28)、Vogl版(参考資料29)、旧全集(参考資料30)、新全集(参考資料31)の前奏を比較してどの様に演奏に影響すると感じられますか?
24小節からの繰り返しを何処に戻すのか初版と旧全集、ペーター版(参考資料32)では明確では有りませんが、当然5小節に戻ると思います。Vogl版(参考資料33)では有節歌曲の形で印刷していませんが、当然のこととして考えられることです。
第11曲 Mein ! 僕のものだ!
この曲の伴奏はフレーズィングに色々とVogl版で手が入っていますが、音では違いが有りません。しかし歌のメロディーとなるとあまりに違いすぎますので、最初に普通に歌われているものを歌います。次にVogl版で歌います。
如何でしたか?こんなに違うのです。2,3の例を目で確かめてください。
旧全集(参考資料34)では最初の2ページはこの様で、初版とほぼ同様ですが、Vogl版(参考資料35) [ Vogl版の再版でフランス語が付いています。] ではこの様に変奏されています。
こんなに変える理由が何であったのか、我々には結構歌いづらいのですが、当時の歌手には歌いやすかった理由は何か、Vogl版を選択した理由は、この版しか出版されていなかったからなのか?初版も存在していた時代だとは思うのですが、私には分かりません。オーストリア国立図書館やヴィーン市立図書館に当時移調した楽譜が幾つも残っているのですが、全部Vogl版による手書き楽譜なのです。勿論それらの中には現在では作曲家の名前すら知られていない、当時の流行作曲家の歌曲がベートーヴェンやモーツアルト、シューベルトと共に写譜されていたのでした。
最初にシューベルトの楽譜で歌い、2回目にフォーグル版で歌います。こんなにメロディーを変えてその時代には歌われていたのでした。
更に詳しい事を知りたい方は私が主宰しております『東京ドイツ・リート研究所』で色々な勉強会をしておりますので、ご参加ください。
以上説明や歌い較べで、オペラ歌手であると同じにシューベルトの歌曲を世間に広めるについて多大な功績のあったフォーグルがこの様な解釈をし、しかもそれが70余年間の長きに渡って広まっていたのか、現代に生きる我々には全く不思議に思うのですが、これらの事実で、時代における人間の趣味と言うか、流行と言うのか、その一端を察知できるかと思います。
人間の趣味と言うか、時代の趣味と言うのか、日本人の趣味も全く変わりました。和服が全くと言って良いほどに廃ってしまい、若い女性のミニスカート、チャパツや金髪、日本語のアクセントなど数え上げれば限が無いほどに変化してきています。日本に限った事ではないのですが、服装、食べ物など時代と共に変化した物は数え切れません。
音楽の趣味も当然変わって当たり前なのでしょう。結局のところは我々個人個人が心から満足できる楽譜で心から素直に表現する事だけなのです。それがそれぞれの個性を大切にする事であり、それが大勢に、どのように受け入れられるかではなく、共感してくれる人に聴いてもらう以外には道は無いのでしょう。私の独り善がりとも言われるでしょうが、自分自身の心に忠実に歌ってきたと思いますし、これからも歌いたいと思っています。勿論作曲家に忠実である事は第一条件で絶対だと思うのですが。
お年を召された方々で昔の歌や童謡を懐かしみ、現在歌われている子供の歌について行けないと思われている方はおられるでしょう。僕も昔の歌の方が心にしみわたるように思っていますが、如何でしょう。子供の歌についてはまた機会がありましたら話したいと思います。
疑問点など質問がありましたらどうぞ質問してください。
次年度御案内 第1回 10月22日19時より シューベルトの「美しき水車屋の娘」(2)